「競馬はギャンブルじゃない」という言葉を聞いたことはありますか。多くの人にとって、競馬がギャンブルと呼ばれるのはなぜか、あるいは競馬のイメージが悪いのはなぜか、といった疑問があるかもしれません。
日本では原則として賭博が禁止されているにもかかわらず、競馬はなぜ合法なのでしょうか。また、そもそもなぜ競馬があるのか、その存在理由も気になるところです。
一方で、パチンコはギャンブルじゃないという言説もありますが、これと競馬はどう違うのでしょうか。この記事では、法律上の「ギャンブルとは」何かという定義から、競馬が公営ギャンブルとして認められている背景まで、多角的に解説します。
ポイント
- 法律における「ギャンブル(賭博)」の正確な定義
- 競馬が賭博罪の例外として合法化されている法的根拠
- 競馬とパチンコの法律上の根本的な違い
- 競馬が持つスポーツや文化としての多様な側面
「競馬はギャンブルじゃない」論の背景
- 「ギャンブルとは」の定義を確認
- 競馬のイメージが悪いのはなぜか
- 競馬がギャンブルと呼ばれるのはなぜか
- 競馬のスポーツ・文化的な側面
- 予想の楽しみと知的な側面
「ギャンブルとは」の定義を確認
まず、「ギャンブル」という言葉の法的な定義、すなわち「賭博(とばく)」について確認します。日本の刑法第185条では、賭博について定められています。
法律上、賭博が成立するには、主に以下の2つの要件を満たす必要があります。
- 偶然の事情により勝敗が決定すること
- その勝敗により財物や財産上の利益の得喪を争うこと
例えば、じゃんけんであっても、勝った方がお金を受け取り、負けた方がお金を失う約束をすれば、それは賭博にあたります。
「一時の娯楽に供する物」は例外
ただし、刑法第185条には「ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。」という例外規定があります。これは、その場で消費されるような少額の飲食物(ジュースやお菓子など)を賭ける場合を指します。
たとえ1円であっても、現金を賭ければ賭博罪が成立するというのが、法律上の解釈です。
この定義に照らし合わせると、競馬は「馬の着順(偶然の要素を含む)」によって、「馬券の購入金額(財産)を失うか、配当金(財産)を得るか」を争うため、賭博の基本的な要件を満たしていると言えます。
競馬のイメージが悪いのはなぜか
競馬が賭博の要件を満たす一方で、「競馬はギャンブルじゃない」という主張が存在するのはなぜでしょうか。その背景には、競馬が持つ多様な側面と、「ギャンブル」という言葉自体が持つネガティブなイメージが関係しています。
競馬に対して「イメージが悪い」と感じる人がいる主な理由は、以下のような点が挙げられます。
1. 「ギャンブル=悪」という社会的通念
日本では法律で賭博が原則禁止されていることもあり、「ギャンブル」という言葉自体に「お金を浪費する」「身を滅ぼす」といったネガティブなイメージが強く根付いています。競馬が法律上「公営ギャンブル」と分類されているため、そのイメージが先行しがちです。
2. ギャンブル依存症問題との関連
他のギャンブルと同様に、競馬もギャンブル依存症の一因となる可能性があります。メディアで依存症の深刻さが報じられる際、競馬がその一例として挙げられることもあり、社会問題としての側面が強調されます。
動物愛護の観点からの批判
近年では、動物愛護の観点から競馬を批判する声もあります。競走馬の過酷なトレーニングや、引退後の処遇(殺処分など)が問題視されることがあり、これも一部でネガティブなイメージを形成する要因となっています。
競馬がギャンブルと呼ばれるのはなぜか
前述の通り、競馬の基本的な仕組みは「賭博」の法的定義に当てはまります。つまり、馬券を購入する行為は、紛れもなく「ギャンブル」の一形態です。
競馬がギャンブルと呼ばれる最大の理由は、その「射幸心(しゃこうしん)」を伴う側面にあります。
射幸心とは、「偶然の利益や幸運を得ようとする気持ち」を指します。馬券が的中すれば、時に投資した金額の何倍、何十倍もの配当金が得られる可能性があり、この「一獲千金」の期待こそがギャンブルと呼ばれる核心的な要素です。
「競馬はギャンブルじゃない」と主張する人も、この金銭の得喪を争う側面を否定しているわけではなく、むしろ「競馬の魅力はそれだけではない」という点を強調したい場合がほとんどです。
競馬のスポーツ・文化的な側面
競馬は、単なる賭け事の対象としてだけでなく、多くの人々を魅了する「スポーツ」であり「文化」としての側面を持っています。
特に近代競馬発祥の地とされるイギリスでは、競馬は「キング・オブ・スポーツ(スポーツの王様)」と呼ばれ、王室や貴族に愛される伝統的なスポーツとして社会に深く根付いています。
日本においても、競馬には以下のようなスポーツ・文化的要素があります。
- アスリートとしての馬と騎手: 鍛え上げられたサラブレッドが全速力で走る姿や、それを巧みに操る騎手の技術は、他のスポーツ観戦と同様の興奮と感動を与えます。
- 歴史と伝統: 日本ダービーや有馬記念といったG1レースは、それぞれが長い歴史を持ち、世代を超えて語り継がれるドラマを生み出してきました。
- 生産という文化: 競走馬は、生産者(ブリーダー)が何代にもわたって血統を研究し、情熱を注いで生み出す「作品」とも言えます。
馬券を買わなくても、純粋なスポーツ観戦として競馬場に足を運ぶファンも多いのです。美しい馬が走る姿や、会場の一体感に魅了されるんですね。
予想の楽しみと知的な側面
競馬のもう一つの大きな魅力は、その「知的なゲーム」としての側面です。競馬の予想は、単なる運任せのくじ引きとは異なり、膨大なデータを分析・考察するプロセスを伴います。
多くの競馬ファンは、以下のような要素を複合的に分析して「どの馬が勝つか」を推理します。
- 血統(けっとう): その馬の父親や母親、祖父母がどのような馬で、どのようなレース(短距離、長距離、芝、ダートなど)を得意としていたか。
- 過去の成績(レースデータ): これまでのレースでどのような走りを見せたか、得意な競馬場やコンディションは何か。
- 調教(ちょうきょう): レースに向けたトレーニングの様子。
- 馬場状態: その日の天候によるコース(芝やダート)のコンディション。
- 騎手との相性: 騎乗する騎手の得意な戦法と、馬の特性が合っているか。
これらの情報を収集し、自分なりの仮説を立てて予想する行為そのものに、パズルを解くような知的な面白さがあります。この「予想のプロセス」こそが競馬の醍醐味であり、「競馬はギャンブル(=単なる運任せ)じゃない」と主張する大きな理由の一つとなっています。
法的に「競馬はギャンブルじゃない」のか
- 賭博が禁止なのに競馬が許される理由
- 競馬はなぜ合法な運営が可能なのか
- 公営ギャンブルとしての競馬の役割
- そもそもなぜ競馬があるのか
- 「パチンコはギャンブルじゃない」との違い
- 競馬はギャンブルじゃないのか最終考察
賭博が禁止なのに競馬が許される理由
ここまでの解説で、競馬が「賭博」の要件を満たしていること、しかし同時にスポーツや知的なゲームとしての側面も持つことを確認しました。
では、なぜ日本では刑法で賭博が禁止されているにもかかわらず、競馬は「合法」なのでしょうか。
その答えは、「競馬法」という法律にあります。
日本の法律には、刑法のような一般法(広く適用される法律)のほかに、特定の分野について例外を定める「特別法」があります。競馬法は、刑法第185条(賭博罪)の例外を定める特別法として機能しています。
競馬は「合法的な賭博」
つまり、法的な観点から見ると、競馬は「ギャンブル(賭博)ではない」のではなく、「法律(競馬法)によって特別に許可された、合法的なギャンブル」というのが最も正確な表現です。
競馬法によって、国(JRA)や地方自治体が主催する競馬に限り、馬券(勝馬投票券)の販売と配当金の支払いが例外的に認められています。逆に言えば、個人や許可のない団体が馬券を販売して賭け事を行えば、それは違法な賭博として処罰の対象となります。
競馬はなぜ合法な運営が可能なのか
競馬が合法的に運営できるのは、競馬法に基づき、その運営主体や方法が厳格に定められているからです。
競馬の主催者は、以下の2種類に限定されています。
- 日本中央競馬会(JRA): 農林水産大臣の監督下にある特殊法人。いわゆる「中央競馬」。
- 地方自治体(都道府県・指定市町村): 各地の地方競馬場(例:大井競馬場、園田競馬場など)で「地方競馬」を主催。
これらの主催者は、法律に基づき、公正なレースの施行と、ファンへの正確な情報提供を義務付けられています。また、収益の使途も法律で定められており、私的な利益追求のためではなく、公共の利益のために運営されている点が、違法な賭博との決定的な違いです。
公営ギャンブルとしての競馬の役割
競馬法などの特別法によって合法化されているギャンブルは、競馬のほかに「競輪」「競艇(ボートレース)」「オートレース」があります。これらは総称して「公営競技」または「公営ギャンブル」と呼ばれます。
公営ギャンブルには、単なる娯楽の提供以外に、主に2つの重要な役割があります。
1. 国や地方自治体の財源確保
最大の目的は、国や地方公共団体の財源確保です。馬券の売上(控除率)の一部は、主催者である国や地方自治体の収益となり、公共事業や社会福祉、教育などのために使われます。競馬は、特に戦後の復興期において、貴重な財源として機能した歴史があります。
2. 関連産業の振興
競馬であれば「畜産(馬の生産・育成)の振興」、競輪であれば「自転車産業の振興」といったように、それぞれの競技に関連する産業を育成・支援する目的も持っています。
公営ギャンブルは、その収益を公共の利益に還元することを前提として、合法性が担保されているのです。
主な公営競技(公営ギャンブル)とその根拠法
競技名 | 根拠法 | 主な監督官庁 | 主な目的・使途 |
---|---|---|---|
競馬 | 競馬法 | 農林水産省 | 畜産の振興、国・地方の財源 |
競輪 | 自転車競技法 | 経済産業省 | 自転車産業の振興、国・地方の財源 |
競艇 (ボートレース) | モーターボート競走法 | 国土交通省 | 海事産業の振興、国・地方の財源 |
オートレース | 小型自動車競走法 | 経済産業省 | 機械工業の振興、国・地方の財源 |
そもそもなぜ競馬があるのか
では、なぜ数ある賭博の中で「競馬」が選ばれ、合法化されたのでしょうか。その理由は、競馬が持つ歴史的な背景と産業的な側面にあります。
近代競馬は、もともと軍馬の改良や育成、つまり「馬の能力を競わせ、優れた種馬を選定する」という目的で発展してきました。日本でも、馬匹(ばひつ)資源の確保と畜産振興は、古くから国の重要な課題でした。
レースを施行し、それに馬券というインセンティブ(動機付け)を加えることで、多くの人々の関心を集め、馬の生産・改良を促進することができます。
つまり、競馬は単なる賭け事として始まったのではなく、「畜産の振興」という国家的な目的と、「娯楽の提供」「財源の確保」という目的が結びついて発展してきた、特殊な公営事業なのです。
「パチンコはギャンブルじゃない」との違い
競馬の議論において、よく比較対象となるのが「パチンコ」です。巷では「パチンコはギャンブルじゃない」という言説もありますが、これは競馬の「合法」とは全く異なる理屈に基づいています。
競馬とパチンコの法的な違いは決定的です。
- 競馬: 競馬法に基づき、主催者が客に馬券を販売し、的中者に「現金」(配当金)を直接支払うことが許可されている。(=合法的なギャンブル)
- パチンコ: 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風営法)に基づき、「遊技」として管理されている。店が客に直接「現金」を支払うことは固く禁じられている。
では、なぜパチンコは実質的に換金ができ、ギャンブルのように機能しているのでしょうか。それが、いわゆる「三店方式」と呼ばれる仕組みです。
パチンコの「三店方式」の仕組み
- 客はパチンコ店で、出玉を「景品(特殊景品)」と交換する。
- 客は、パチンコ店とは別の事業者である「景品交換所」にその景品を持って行く。
- 景品交換所が客から景品を買い取り、客は「現金」を受け取る。
- (景品問屋が交換所から景品を買い取り、パチンコ店に卸す)
この仕組みにより、「パチンコ店は客に現金を支払っていない(=賭博ではない)」という建前が成立しています。法的には「遊技」の結果、たまたま手に入れた景品を、古物商(景品交換所)に売却した、という解釈になるのです。
このように、競馬が「法律で賭博を許可された公営ギャンブル」であるのに対し、パチンコは「法律の建前上、賭博ではないとされる遊技」であり、両者は法的根拠が全く異なります。
ただし、実態としてギャンブル依存症などの問題を引き起こしていることから、「ギャンブル等依存症対策基本法」では、パチンコも「ギャンブル等」の一つとして対策の対象に含まれています。
競馬はギャンブルじゃないのか最終考察
この記事では、「競馬はギャンブルじゃない」という言葉の裏にある、競馬の法的・社会的・文化的な側面を多角的に解説しました。結論として、競馬は法律上、そして実態として「ギャンブル」の一形態です。しかし、それだけではない多様な魅力と社会的な役割を併せ持っています。
以下に、本記事の要点をまとめます。
- 「ギャンブル」の法的定義は「偶然性」と「財産の得喪」
- 競馬は馬の着順で配当金を得喪するため賭博の要件を満たす
- 刑法では賭博は禁止されている
- ただし「一時の娯楽に供する物」の賭けは例外とされる
- 競馬は「競馬法」という特別法によって合法化されている
- 競馬は「賭博ではない」のではなく「合法的な賭博」である
- 主催者はJRA(国)と地方自治体に限定される
- 競馬の収益は国や地方の財源となり公共の利益に使われる
- 畜産振興や馬匹改良という目的も持つ
- 競馬は「公営ギャンブル(公営競技)」の一つである
- 競馬のイメージが悪いのはギャンブル依存症などとの関連もあるため
- 競馬にはスポーツ観戦としての側面がある
- 血統やデータを分析する知的なゲームとしての側面も強い
- パチンコは「公営ギャンブル」ではなく「遊技」である
- パチンコは「三店方式」により賭博罪の適用を回避している
- 競馬とパチンコは法的根拠が根本的に異なる